昭和42年5月10日  月次祭


 (音声不良)
 (      ?        )どうぞその身から打ち込んだ信心をしてくれという事は、どんな事があっても(折れない?)、どんな事があっても狂わない信心の事をいうのでございましょう。有難い、(           ?          )。それがその身から打ち込んだ信心(     ?     )(                    ?                  )
 夕方の御祈念に、、この頃おかげ頂いて合楽の人達が(   ?    )お参りがあるわけです。その中に初めてという方がお参りしてこられました。その、今晩も参っておられます。その方が私に、私、御祈念終わってこちらに出らせて頂きましたら、そこで(まだ?)2、3人話しておられます。今日のお話、いわゆる御理解という事は分からない。( ? )、今晩のお話はほんにありがたいお話しであったが、あれまるで私が一人で頂かなければならないような話じゃったと言うて感激しておりました。私はその方に申しました。素晴らしいですね。(         ?        )、うちの嫁に聞かせたかったというのではなくて、もう本当に今晩の話だけは私が一人で頂くような御理解であったというて感激しておる。初めて参ってきました。今晩また参ってきております。そのようにね、せっかくこうしてお参りしておる方がおられますしね、私もせっかくこうして仕えさせて頂くのでありますから、それにね、やはり皆さんの信心の(   ?   )って、それがおかげにもなり、ゆくゆくはお徳にもなるようなおかげを頂いてもらわなければならない。(  ?  )、姿勢、一言でも聞き漏らさんという思い、態度が、お話を頂く者の態度としてとても必要なんです。
 今日は私、ただ今申しましたところの、教祖神様のご理解の中にもあります、付け焼刃の信心では取れやすい、その身から打ち込んだ信心をしてくれよとこう、信心をしてくれよとこう神様が頼んでおられる。という事はどういうような事か(            ?         )。(   ?   )であると例えば、なるほど(        ?        )ございますけれども、本来は、氏子信心しておかげを受けてくれよというおかげを、もう頂いてもらいたいばっかりが親の心なのです。親情なんです。(        ?           )たい、それこそ(  ?  )の限りのない、尽きることのないおかげを(  ?  )。私共はありのままですけれども、それをよう信心しませんから、(頂かずに?)事ができるんです。(        ?      )でしょう。そうばってんから、それは、あなたの信心は本当な信心じゃないぞと言わなければなりません。ですから、真の信心求め真の信心を願わせて頂いての信心なんです。神様が、どうぞその身から打ち込んだと仰るのはそういうような事。信心しておかげを受けてくれよと、おかげを受けてくれよと。そこには氏子の助かりがそのまま神の助かりなんだ。神様がご自身も助かるから。それは例えば子供が、どんなにお父さんが、地位や(名誉や?)財産ができたというても、子ども中に(   ?   )。(    ?   )。そんなお父さんがはたして幸せだろうか。幸せじゃないでしょう。子供の中にくずの子があればくずの子ほどかわいいものであるものだとこう仰る。こうして御神縁を頂いて、皆さんもこうして御広前にお引き寄せを頂く。もう並々ならぬところの御深慮によってからこの縁なんだ。その縁ができて、金光様のご信心ちゃあ有難い、有難いというて(長年椛目にこげん?)お参りしよった人がです、ころっとやめてしまう。それも本当に(簡単に?)。
 今度の御大祭に(  ?  )に来て、そこにある幹部の方からちょっとだけ変な事を言われた。もう腹たってたまらん、もう椛目に参らん、合楽に参らん、という人がある。お互い(?)をしなければいけませんね。ですからね、
今日はそういう事をですね、ここ二、三日私が頂いております事柄からお話しをしたいと思うから、どうぞその身から打ち込んだ信心とはどういうような信心であるなというところを皆さん、分かっていってもらいたいと思うのでございます。

 私は最近口を開きますと、その、打ち込むという事を申します。信心に打ち込みなさい。打ち込むと申します。(皆さんなら打ち込むだけなんです?)。参って打ち込む。今日も、ある教会の総代さん方が三人でお参りして参りました。もうお話を聞き終わって( ? )なかった。もうお話を聞けば聞くほど(  ?  )。まあ(            ?         )上野さんの、まあだいたい鳥栖の方です。鳥栖の教会で総代をしておられる。ご主人が総代をしていて、ご自身は楽の御用を頂いておられる。もうそれこそ十五年にもなりましょうか。あるもうどうにもできん難儀な問題が起こった。椛目に初めてご縁を頂いたのが初めてじゃった。それでおかげを受けて、ところが人事ではない(家族?)ではない、(?)もこれまた難儀な問題が横たわっておった。それが一心の信心と椛目では御理解頂く。そこに私は行じていくうちにです、その一つ一つがおかげを頂く。もちろん、鳥栖の教会の方は( ? )しませんから、御大祭の時にはやはり楽る御用を頂いておるけれども、その鳥栖の教会の総代さん方が三人でみえられた。初めから私の話を聞かせて頂いてから、それはもう(? )感激してですね、もうそれこそ身を震わせる、(?)目を輝かせて私の話を食い入るようにして、そういうような問題を実は私も本当おなかの中にもっておりましたと。それはね、そういう風に先生達の( ? )ができなかったと。初めて頂いて( ? )自分たちの信心が間違うておったという事が分かったというて、これからはどうぞ、実を言うたら鳥栖の教会にお参りさせて頂きたいんですけれども、それは先生が(お頼りに?)できませんから、私共信者を引き連れておかげを頂きます。皆さんという人はどうした人だろうか、長年鳥栖でおかげを頂きながら、(そろそろお参りして来んか?)というてみんなから悪口を言われておったけれども、なるほどこれじゃ、椛目椛目、合楽合楽というてお参りに来るはずだというてです、その方達がですね、もう(そこに先生が最終的におられないんです?)。それで、(        ?        )親先生が(基山教会から来なさった?)。(お話を聞きますとね、御取次を願っておられる?)。総代さん(      ?       )言われました。そして、長い間、やっぱ、そういう教会はうれしい。いわゆる、(その身から打ち込まなければ?)できることじゃない(  ?  )も、ただ打ち込んでおった、長らく続いておったというだけではいけないという事。初めて(  ?   )合楽の(  ?  )不思議があったと、いうような、それこそ、合楽の(信心については?)もう(      ?     )。もういよいよその(    ?  )ね。拝み信心であるとか、(    ?    )とか、見ると聞くとは大違い。来てみてお話を頂かせてもらい、ここの御広前の雰囲気を見た、感じただけで長年の信心を頂いておるから分かるのです。これから( ? )の信心ならば(誕生したような?)雰囲気と(         ?       )。そして先生なんです。これからは、今日先生から教えて頂いた、そこんところに打ち込んでおられます。そうです、私もそこんところに打ち込んでまいりました。ですからここじゃ、私がそこんところに打ち込んで、確かにこういう、なら(水が出るような?)おかげを頂いておるのであるから、もう間違いがないのです。(さぐりを入れるのじゃない?)。もうここなら間違いがないというところに打ち込ませて頂くと、その事についてもいろいろお話をさせて頂いた。
 皆さんも椛目におられれば信心は続けておられますが、椛目の信心がどういうあり方、合楽に参りましてからも、今先生がどういう信心の(抱負?)を持って信心を進めておるかという事をお分かりになると思うんですけれども、分かっておるだけではいけないのです。椛目の信心は(     ?    )という事が分かっておったんじゃだめなんです。
 私この頃、(         ?         )だから、お参りに来られました。先生、(総代さんの?)御長男です。清さんの、昨日、二、三日前の夜にです、今朝からもう先生が打ち込むという事を仰ったが、いっちょん分からん。打ち込むちゃあどげなん事ですか。と、そして神様に、まあ休ませて頂く時に、神様、打ち込むという事はどういうような事でございましょう。私流に、私なりに、分からせて頂くようにどうぞお夢の中にでもお知らせを頂きますようにというて、御神夢を願うて休まれた。ところがそのお夢の中にです、さっき、お住まいが町会議員の実家でおられます、(         ?        )受けられたんですけれども、ちょうどその時の模様を夢の中にもありありと頂かれた。小さいながら二人の立候補がたっておられました。立候補者なんですね。そころがその、清さんも(        ?        )立候補の方がやってみえられました。こっちはもうそれこそ淡々として( ? )挨拶を(    ?    )なるんです。顔はそっちは能面のように(    ?   )。それこそもう見ようごつなか(       ?       )。それで、信心のある者とない者の違いがそこに感じられた。自分はもう淡々として(お参りすりゃあなりたい?)気持ちでおる。いうならば(  ?   )。けれども、こちらは信心を頂いておるから、こちらから挨拶をさせて頂こうと思うておったら、向こうの方からよけて通られたという。そういうお夢だった。打ち込むという事は先生そのお夢とどういう(働き?)があるでしょうか。先生(     ?     )、それこそ一生懸命にお参りをして来なさる。朝晩だけじゃない、夜中まで。もうそれこそ夜もなか、夜中もなか   。もう(               ?        )中をです、もうどこにも(    ?                    )。それこそもう心情吐露してからお届けがあった。その人の御取次を願われるわけです。一生懸命です。私はもうその都度に、本当にそれこそ、あんただん馬鹿じゃなかのち言うてから怒りました。何のためにここで信心しておるの、というわけなんです。だから打ち込むという事はですね、もう夜もなければ昼もない。一つの願いの為にです、一心に打ち込ませて頂く時にはもう寒いもなからなければ暑いもない、遠い近いのを感じます。これが打ち込みなんです。同時にその打ち込みという事がです、あれに負けるもんか)。ある人が(    ?   )、(洋服を着せてもらったと?)、先生、私が助からなかったらです、(       ?    )ます。(         ?      )ておる。病気をいっちょん願いもせん。それこそ、近所のもんに(それがあって言わせない?)。近所のもんの(     ?      )。これは違う。(              ?        )見せつけるためにでもおかげ頂かねばならんというような事では、そういう、根性ではいくら打ち込んでも打ち込んだじゃないという事。たとえそれが(財閥?)でありましても、それこそ淡々として、(  ?  )ができるというような心で、しかも(  ?  )打ち込んだ(  ?  )心持ちで、御広前に(御広前に参って来る?)というような信心。これが打ち込むという事なんです。(お供え物?)させて頂いたら、ちょうど(そのお供え物が?)全部、私共にとってはその打ち込み方が違う。そんなもんじゃない。もう不純だらけの打ち込み方。そしたらです、それにまたお夢を見せられた。しかもそのお夢の中にもです、誰かが(話に出てきます?)。何か会合が、その会合に出席される、清さんが夢の中で。そしたら誰かの声でです、時間に遅刻するごたる事じゃ打ち込んだと言われませんよち言わっしゃる。時間に遅刻するような事ではです、打ち込んだ事になりませんよち言わっしゃる。私はそれを頂いてですね、もう神様の教えて下さる事はもう本当に素晴らしいと思いましたですね。(  ?  )お月次祭だと、八時半のお祭だというのにです、遅れてくるような事じゃです、信心はしとりましょうけれども、打ち込んだ信心をしておるとは言えないという事なんです。そりゃ(    ?    )どうしてどういうような(  ?  )ができるかどうかやら分かりません。いやお参りすらできない人もたくさんありましょう。けれどもです、そういう性根が素晴らしいのです。今日はお月次祭だと、一時間かかるなら七時半から出てきておる、二時間かかるなら六時半から出てきておる。それなんです、その心がけなんです、打ち込むという事は。
 今日は私は久留米の文化センターで大原美術展が開かれました。倉敷のですね。もう倉敷に行かなければ見られない、いや倉敷に行っても見られないといったような、その、品物が、品物というんですか、絵がある。(            ?         )、素晴らしい。私は何かね、ああいう素晴らしい物だけは見ておきたいと思うですね。(こりゃ立派なものである?)といったようなものは分からんでも見ておきたい。私はもう、とにかくですね、私は(  ?  )がなかった。もう全然( ? )。けれども日本一の(野球の試合?)というごたる時にはもうどうでん見せて頂く。私は( ? )。けれども本当に日本一の相撲ちいうものを見たいと思うたとは(青年の?)(   ?   )けれども、確かに日本一とか素晴らしいという中にはです、何かこちらが(  ?  )分かるものがあります。いわゆる(来ただけでも?)頂けるんです。そこに神の声を聞くのです。そこに神の姿を見る事ができるんです。
昨日私もそういう意味合いにおいてです、おかげを頂かなければなりません。(    ?      )、もう(どの絵もどの絵も?)です、素晴らしい迫力をもった迫るような絵がかけてございました。中に、信仰の悲しみというのがございました。素晴らしい絵です。もう見とっちから、けれどもそれを見てからです、背中がゾーッとするような気が致しました。(あのへんが?)素晴らしいのです。その絵の内容がです、もう何というんでしょうか、地獄へ落ちるような感じでしたね。信仰の悲しみ。だからその前に立ってから御祈念させてもらった。信仰の悲しみを見たのは、いかにも信仰しよる者だ、いや信仰しない者なんだ。間違ったとり方をするんじゃなかろうかと私は思うた。それけん( ? )、あんまり打ち込みません。あんまり呆けてから(      ?          )、と言われるようなです、信心に思われはしないだろうかというような気がしましたけれど、確かに信仰にも悲しみがあるという事。教祖の神様が、御晩年のころ、ご自分がおかげをお受けになられた事をです、を、いわゆる御伝記にお控えになられた。あるところまでこうやってお見えになられました。どうして自分のような無学の百姓のところに、これだけの人が助かるようになっただろうか。何という素晴らしい神様の働きがあろうかという感激をですね、感涙にむせばれながら書いておられました。うれしいやら悲しいやら、素晴らしいわけです、うれしいやら悲しいやら。もうそれこそ悲しいまでの喜びだという事、苦しいという悲しみとは違う。ですから信仰の悲しみというのは、そういう素晴らしい悲しみもあるです。うれしいやら悲しいやら、それが私共のような信心でもです、それを都度都度に感じる事がございます。ここに座らせて頂いておりますと、本当に(ままじゃない?)事であってもそう、一生懸命(   ?    )。そういう風に本当に(         ?      )して頂く、何の為に(       ?      )。( ? )、そげなん事にききよる。それこそうれしいやら悲しいやら、私のところに来たなら私のところに、もう私は非常につまらんのです。頭の悪い)、もう何のどこにも取り得のないような私のところにです、このようなことができる、このような人が助かってといきおるという事なんです。家族は本当に勿体無いような(  ?   )を頂いておるという事なんです。本当、泣かずにはおられないと言うような事でございます。この事もやはりうれしいまでの悲しみでした。ですからそういう意味合いにおいての信仰の悲しみなら有難いのですけれども、それこそ地獄を(  ?  )ておる。(    ?   )そうやって一生懸命信心しておる。けれども変わり映えのしない。おかげにつながらない。そういっても金光様金光様っちいうてから参っておるというならですよね、たとえそれが金光様のご信心でありましても、それは悲しき信仰だと私は思うです。
 世の中には非常に宗教があります。金光様の信心だけではありません。素晴らしい信心というのは(   ?   )ありませんけれども、教祖の神様は打ち立てられた(?の真の信心というのは、どこまでも天地に通うておるという事、天地に通じておる。しかも天地の道理に基づいておる。(  ?  )天地の御恩徳に対して、(神恩?)、感謝の( ? )というものがなされていく。そこに人間としての(お互いの?)、これは当たり前の生活が、できれる道を教えられたのです。おかげを頂く道、おかげの道ではありますけれども、商売繁盛の道でもなからなければ、お産の神様でもないのです。いわゆる病気治しや災難よけの神ではない、心直しの神じゃと仰る。

 私共がそういう間違いのない焦点に向かって打ち込んでいく信心。そういう打ち込みから絶対なもの、コンとここを叩けば音がするようなもんです。それこそ大地を、間違いなく大地を叩くような         ?          )じゃないです。お道の信心でいうところのおかげというのは、そんなに間違いのないものです。それを私共がです、付け焼刃の信心をいたしておりますと、何かが起こってまいりますとそれを、そこに迷いが起こる。いわゆる、信心(      ?       )でしょうけれども、(座る事だけはというような?)、(それを貫く状態?)(     ?    )お参りしよったけれども、この頃お参りしようごつなかごつなってきたというのがある。その時(     ?     )、もうそれでいっぺんにまいってしまうという人達がたくさんおられましたね。それこそ惜しい事です。そこのところを私共は辛抱しぬかせていただいて、そこんところを大事にしていかなければいけません。そこんところは泣く泣く辛抱しいしいという事で(なからなければいけません?)。泣く泣く辛抱しいしい辛抱しておりましたら、そこから欲しいものが無くなり、惜しいものもなくなる。ただ、有難うて有難うてというような境地が開けてくる。そこに、惜しいものもなからなければ欲しいものもないというような境地の上に、神様は限りないお恵みのおかげを下さる事ができてくる。そういうおかげを私達が頂かなければならんのでございます。
 それには、どうでも一つの(  ?   )、今日私が申しました打ち込みが必要なんです。一生懸命お参りをしてます、一生懸命お話を頂く事に打ち込ませてもらっておる、本心の玉を磨く事に、改まらせて頂く事に、御用、お参り、様々な間違いのない、これは例えば私の信心を見たり聞いたりして下さると、私が過去にどういうような打ち込みをしてきたかということは、お話の一つ一つにでてくるわけなんです。ですからここには一つの生きたプランちゅうのがあるんです。まあ、この話はの、まあ百年前の話ばい、(        ?       )、というようなもんじゃないです。私皆さんにお伝えしたい、(     ?         )。
昨日一昨日でした。十二時ころ(  ?  )。そうしましたらね、そのちょうど前の日でした。その前の日に、先生があの、下がっておりましたら、先生がこちらから(    ?    )家内がこういう風な事をお願いしておりますからというてお伺いがあった。もう二ヶ月余りなんです。病名不明で熱がでたり、体が弱っていかれるんですね。それで子供達が心配いたしましてからその病院に入院させたんです。そこでも熱が下がらない。(再びその?)、自分が(        ?       )解熱剤に(    ?    )からですね、(       ?            )。それで私は(          ?         )もう明日でも良いから、私が御結界に座っておる時にお届けをして下さいというて、そん時には(    ?    )したから、次の日に参ってみえて(こういうことで    ?     )お届けをされました。
 そしたら神様からですね、「久富先生、改まって願いなさい」という事であった。この改まって願うという事が大事でしょうね。改まって願うという事はいろいろあります。どうぞ神様おかげを頂かせてください。その度にここのところは磨きます、ここんところは改まりますというような、(   ?   )腹を立てません、というような事なんかはまあ(    ?    )。改まって願う、同時に(今申しました?)、(    ?    )お願いにいこうと思いますけれども、改まって又お伺いいたします、というて、例えばいうなら、羽織袴の襟を正して、(    ?   )を持って、それを改まってと申しますね。ですからそこに意味は色々あるでしょうけれども、とにかく今までの信心ではいけませんという事なんです。改まって願うのと、それが(     ?     )でも、(   ?   )という事である。その時に私が頂きました事はですね、私自身の糖尿病の事を頂くんです。その糖尿病の事は大変な御真意があっての事でございますから、それこそ私の(願いでもある?)んですけれども、皆さんが心配して下さっておる通りに、この前の月次祭でした。皆さんが帰ったあとに菊栄会の方達がここに残っておりました。それけん、今日あんただん何のと言うけん、もうこの頃ですね、その尿検査を致しますと一番その悪い色がでてくるんです。(  ?  )さんが着ておるようなああいう(  ?  )まだ黒ずんだ色がでてくるんです。もうこれは(  ?   )、一番悪いというわけなんです。それでこれは間違うて(    ?    )、(      ?       )(       ?      )と思いましたもんですから、ちょうどその、(                    ?        )、みんな小便を持ってから、みんな調べる。それがもう(      ?          )なんです。みんな( ?  )、それで私もだんだんもういよいよ悪くなっておるんです。それで先生いよいよこれはもう本気で一つ(  ?   )いけませんという事であった。そういうことなんです、神様の御修行の、( ? )の働きは恐れ入ってしまう。それが(    ?   )。これで(       ?     )頂きましたらです、私にその、尿の検査をする事を頂くんです。それで私は御神前でその事をお届けさせてもらってからすぐ、もうその場で、あの、(  ?   )電話してきてから、すぐ検査した。ところがですね、その、真っ黄色なんですね。(青色が抜けたんです)。それこそ私は本当、まあ、神様の働きというのはですね、もう痛い痒いといったような事ですね、もうこれは神様の自由自在であるという事は、(いつまでも実感として?)ですね。もう神様がね、こうしたのをこうなさるだけの事なんです。それでも(   ?   )。とにかく、(  ?  )病気じゃないですね。病気ではない、あるのは神様の御都合だけなんです。だからその御都合のところを分かりさえすりゃあおかげになるです。(        ?        )家内も見に来ますから、ちょいとお前達も(    ?    )そんな事思わんか、というわけなんですね。
 それから昨日でした。ちょうど高橋さんが参ってみえられました。何と(不必要な?)おかげでね、もう(   ?   )。(        ?         )、(       ?      )おられんごと、まあ私の事を厳密に(     ?    )、有難い事なんです。それでもう一番に喜んでもらわなんというて、もう本当おかげで私は(   ?   )。それで私は( ? )二、三日前に(               ?           )。それで今日は(        ?         )。(                 ?              )、というわけでその、一時間ばっかり(    ?   )もらう。ところが、全然というほどじゃないですけれども、もうそれこそ1から5まであるその、まあ1まで全然もう、まあ(  ?  )ところでしたね。もうおもしろうに、そりゃ今(    ?     )ですから、やっぱ出てくるのは当たり前でしょう。というような(     ?     )からもうどうにもできない(節があった?)らしいんですね。そんな事があるはずがない、大体は。こういうおかげ、また展開(    ?    )。分かりませんけれども(辛抱しなくちゃいけません?)、神様のご都合なのですから。
 それまでなら、まだその、まあ(             ?             )なるのですけれども、今晩、久富先生のお届けを聞いてから、なるほど、本当にびっくりしてしまうのでございます。今までですね、( ? )が分からなかった、久富先生の奥さんがですね、その日から(   ?   )。私はその(御取次をさせて?)頂いて、その日に糖が出だした。いわゆる糖尿病であるという事が分かったというわけなんです。神様の働きって、もう本当に私達のように頭の鈍いとやらはいかんです。ですから、まあ(椛目に行ってお祭りがある?)といったような事でございますね。もう不思議と言やああの事ほど不思議な事はないのだけれど、信心しておかげのあるのを不思議とはいうまじきものぞ、祈りてみかげのない時にはこれぞ不思議なる事ぞと仰るのでございますから、私共が願わせていただいておる事が成就しない、それはまだ私共の信心が足りんのだ、いわゆる打ち込みが足りんのだと分からせてもらわなければいけません。しかもその、打ち込みよると思うたその打ち込み方が間違った打ち込み方をしておりません、いわゆるここでは(   ?   )、ですからもう私(色?)でなからなければいけません、ここではです。(       ?     )もういかん。ここではやはり大坪流でならなきゃあいかんです。私が打ち込んできたんです。私が辿ってきた道、これならばもう絶対のもの。私は(     ?     )。(       ?     )。そこで今度は皆さんが神様任せになって( ? )親先生任せになる(  ?  )、(生まれます?)。そこから私は打ち込みがなされる。そして、打ち込みがなされるそこから、いわゆる(     ?    )には限りがあり、楽というまでは信心辛抱と仰る、この辛抱をしぬかせて頂いた時にです、初めて限りのない、いわゆる無限(供給?)と申しましょうか、(    ?   )のおかげが頂けるのでございます。しかもそのおかげというてもです、もうそれは限りがないのです。もうそれから先は、もう例えば、打ち込んだ(   ?   )になるです。それから先はもう磨く事において、改まる事においてはもう限りがない事なんです。けれども、ここまでは皆さん(間違えて?)もらわなければならんのです。間違いないその、例えばんなら(      ?       )できないのです。そこで一番み易う、これは堤清さんが頂いておられる(  ?  )、せめてその(間の事ぐらいからのところ?)からは一つ打ち込んでみられたらどうでしょうか。せめて月に四回のお月次祭に、時間励行ができるくらいに打ち込んだら、これはもう一番み易う打ち込むんじゃなかろうか。それとてもです、本当に金光様、金光様、今日はお月次祭がと、朝から祈り続けさせてもらうようなものがいるんです。どこでどういうような商売が(あるとも?)限らんのでございますから。その、そういう祈りこそがです、私は打ち込むという事じゃ、しかもその打ち込むという事の中身は、例えば商売が(     ?    )というような根性ではなくてです、純粋な素直な心を持ってその事に打ち込んでいくというところの信心が繰り返されていかなければなりません。

 今日は私はその?、悲しき、信仰の悲しみというその、画材の絵を見せて頂いた、それがどうも頭の中に焼きついて離れない。皆さんの信心の事を思わせて頂いておりましたら、頂く事がですね、一生懸命にその、一生懸命にと(     ?     )。ところがね、(    ?    )、もうもういつまででも( ? )がずれる、( ? )。そういう信心がです、例えていうならば、(       ?        )ござる。信心が私共の(        ?       )ばってんが、もう(的なし?)に(                 ?             )申しません。これでは(      ?       )勝たないでしょう。そこで私はこれをしっかり、それこそ、いかに力を絞って、(  ?  )引き絞ってです、いかに引いても引いても的のない弓をうっていたのでは稽古にならんのです。ここには信心の稽古に来るところです。そこで一つのその的というものを備えて、その的に向かっておかげを頂かなきゃならん。その事についてです、ならどういう事を的にしたならばと、私の方で御祈念させてもらいましたら、偉大なる馬鹿になれと仰る。偉大なる馬鹿。そこにです、それこそ人間の知恵や力では想像もつかないところに意外なおかげになっていくのだという事です。そこに私共が(・・?)、はあ、今日も一日、「生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼めい」、どうぞ私の心の上に、和らぎ賀ぶ心を、和賀心を頂かせて下さいというて願うんです。その和らぎ賀ぶ心こそが偉大なる馬鹿なのです。自分の心が和らいで(おる時?)喜びでいっぱいです。あの人は馬鹿じゃなかじゃろうか、あげな事言われて腹も立てならっしゃらんというような事が平気でできる、いや、平気じゃない、有難くできるんです。それが偉大なる馬鹿なんです。私の中にそういう偉大なものが生み出しての信心の稽古でなからなければならないという事なんです。今日もまたいろんな事に巻き込まれる。あそこで(      ?      )、あそこでまた腹を立てたというような時にです、また、明日こそ失敗のないようにというて、私はこう稽古しておる、同じ事を繰り返し稽古しておる。そして、いわばその中心であるところの(松の中心を?)言い貫かせて頂いておるようなおかげを頂かなくちゃならんという事なんです。そういう、私は稽古をさせて頂く通りに、今日清さんが頂いておられる(夢なら夢に?)、そういう( ? )にいつも打ち込みがある。どうも必要になってくるのでございます。
 分かっておりますけれども、、やはり打ち込んで信心の稽古(   ?   )させてもらっておる、同じ( ? )させて頂いておるのじゃないと先ほど聞いたんですね。そこに、例えば、お参りであるような事が分からせてもらうのでございます。
 付け焼刃の信心では取れやすい。その身から打ち込んだ信心をしてくれい。(本当?)こう仰っておられる。神様をこのように頂いて、お前の助かりが私の助かりだぞ、お前の助かりがなくて私は助からんのだと、私共が拝む神様はそういう神様なんです。だから、親神様と申しますように、その、親神様の心に沿い奉らせてもらう。その場を神様に喜んで頂けるようなおかげを頂いてこそが、私共が(     ?    )。うれしいやら悲しいやら、どうしてこのような事が起こってくるのであろうかという、より( ?  )においての、悲しい信仰でしょう。けれども拝んでも参っても一向おかげも頂かん。ただうれしいだけの信仰が何十年と例えば続いておるというような姿を、もし第三者の方が見たならば、それこそ信心は悲惨なものであるな、信心はあげんなっと言われるような事になるはずです。周りの一つの(  ?  )というような事になっては大変なんです。いわゆる、信仰の悲しみと第三者の方が、それこそもう(  ?  )ましても仕方がないのです。(自分の?)信仰がある者がです、もうそれこそ有難うて有りがた涙がこぼれるような信心を目指しての信心、それでもみ易うに信心をさせてもらう。み易うというても、お月次祭の時間は遅れないというところから一つ始められたらどうでしょうか。そこから私はいよいよ本当の、筋が通った時に、なら、私の信心というのが皆さんの信心の上にも成就する事になる。どうぞ、そういう打ち込みをしていただきたいと思うのでございます。
 先ほど高山さんのところの謝恩祭の(あれ?)があって、高山さん(どういうところ?)の・・・
(途中切れ)